『コレクター』
静謐が肌を撫でる。
ふらっと縁のある美術館へと足を踏み入れた三蔵は、一般客に混じって窓口の列に並んだ。
入館料の支払いを終えて、受け取ったパンフレットをポケットに突っ込みながら順路通りに展示室を巡る。
最後に辿り着いたのは薄暗い大部屋だった。
四方を囲む紅色の壁、茶色の絨毯。
正面に飾られているたった一つの絵画だけが、特別に豪奢な装飾が施された黄金の額縁に収めてあった。特別な展示品なのだろうと、ひときわ来館者の目を引いていた。
真上に設置された電球がほのかに展示品を照らし出している。
客に紛れて、三蔵は絵画を見つめ続ける。
とても満足そうに、じっとただ無言で。
「こんなガラクタのどこがいいんかねぇ」
芸術の世界に浸っていた三蔵は、聞き慣れた声に空気をぶち壊され、ピキリと青筋を立てた。
気が付くとすぐ横で悟浄がつまらなさそうにしていた。長い赤髪をハーフアップのお団子にしてまとめ、真っ白なスーツを身に纏う。
昼下がりの静寂には不釣り合いな男二人を見つけて、一般客が逃げるように展示室を後にした。
三蔵は普段より声量を落として注意する。
「オイ、静かにしろ。迷惑だ」
「へーへー、普段は怒ると拳銃ぶっ放す癖によく言うぜ」
「今は善良な一般市民だろうが」
「どこが」
悟浄が懐疑的な様子でまじまじと眺める。懐に手を入れて、ふと愛用のハリセンを執務室に置いて来たことに気付き、仕方なく赤い頭を拳で殴った。
「いてぇっ!」
静かな館内に悲鳴がよく響き、通りすがりの学芸員がチラリと横目で流し見る。悟浄は居心地が悪そうに、後頭部を掻き毟った。
「なんでこんなとこ来てんの? もう用は済んだはずだろ」
「組織としてはな。個人としてこの美術館に興味がある」
「ふうん?」
悟浄がぴくりと片眉を上げた。
三蔵は桃源街を中心に活動するマフィア「桃源ファミリー」のボスだ。桃源美術館は縄張り内に建っており、組織の傘下に入る代わりに街の治安を守り、芸術の発展を支援するという密約を交わしていた。
数ヶ月前、美術館で盗難事件が発生したとき、警察よりも早く犯人を捕らえて盗難品を取り戻したことで、桃源ファミリーは館長から絶大な信頼を得たのだった。
「この展示室は、俺が館長に言って作らせた。どうだ、悪くねぇだろう」
「え、これアンタの趣味なのかよ」
「嫌いか?」
「赤色の部屋とか、物好きだな」
悟浄がぐるりと辺りを見回して、露骨に顔を顰める。
「血みてぇって言うつもりか。お前の髪も赤じゃねぇか」
「俺のは気に入ってるからいーの。でもこんな赤一色に囲まれてちゃ落ち着かねぇというか――」
突然悟浄はふと何かが引っかかったように、言葉を途切れさせた。違和感の正体について考え込んでいる姿を横目で眺め、フッと笑みを零した。
「悟浄、もっとしっかり見てみろ」
三蔵は顎をしゃくって前方を示した。
赤色の眼差しが怪訝そうに正面へと向く。数秒も経たないうちにゴクリと息を呑む音がした。
真っ赤な壁に、黄金の額縁。
飾られている絵は藤の花が咲き乱れる世界で、孤独に佇む赤い髪の男の後ろ姿だった。
西洋絵画を思わせる滑らかな筆さばき、立体感。今すぐ男が振り返って何かを語りかけてくるような生々しいリアリティが伝わってくる。
「お前を飾らせた、美しいだろう?」
赤い髪の男のモデルは――今三蔵の隣に立っている男だ。
「おまっ、いつの間に……!」
頬を赤く染めながら、悟浄がわなわなと唇を震わせる。予想通りの反応に気分を良くしながら、三蔵は「ようやく出来上がったんだ」と弾んだ口調で言う。
「絵は馴染みの画家に描かせた。ようやく思い通りのものが出来た」
「それはいいけど、なんでモデルが俺? もっと綺麗なモンはいくらでもあるじゃん。外見だって三蔵の方が俺よりずっと」
「分からないのか?」
三蔵は手を伸ばして、悟浄の顎を軽く摘んだ。
赤色の瞳と視線が絡み合う。戸惑っている男にニッと口の端を吊り上げて見せた。
「いつも夜はたくさん可愛がってやってるのに、まだ気付かねぇとは案外鈍いんだな」
「そ、んなの、ただの気まぐれだって思うだろ普通……」
「ただの気まぐれは十年も続かん」
三蔵は少しだけ背伸びをして、高い位置にある唇に噛み付くようなキスをした。
何も知らない新たな来館者が赤色の部屋に入ろうとしたが、男二人に気付いて、そそくさと立ち去って行く。わざと見せ付けるように音を立てて舌を絡めれば、悟浄が力強くで三蔵を引き離した。
「なにやってんだ……っ! 完全に見られたじゃねぇか!」
「別に構わん。これで客の入りが減っても俺が潰させねぇからな」
「そんなに気に入ってんのかよ」
信じられねぇ、と悟浄が呟く。
三蔵は本人に自覚がないのを残念に思いながら、舌で唇を湿らせた。口の中には悟浄が入館前まで吸っていたらしき煙草の甘さと苦みが残っている。
「これで終わりじゃねぇぞ」
幼い頃から己が生きるために他人のモノを奪い、奪われる人生を送ってきた三蔵は永遠を信じていなかった。
命あるものはいつか死に至る。それが早いか、遅いかの違いだけ。悟浄にとっても例外はない。
だから、三蔵が愛おしいと思ったものを形として残したくなった。
突然いなくなっても魂が残るように。
戸籍のない自分たちを少しでも覚えていてもらうために、何も知らない一般人に見せびらかして。
どうだ、俺の男は美しいだろう。
「さて、次は何を飾ろうか」
真っ赤な小部屋に、まだ作品は一つだけ。