『zip your lips』

 薄暗くて土埃の匂いのするコンクリートの中、溶け込むように金と紅が静かに動く。壁の向こう側からばたばた足音がいくつか聞こえた。三蔵が顎を向けた方に、ひらりと長い髪が靡く。暫くすると悲鳴にも呻き声にも思える耳障りな音。それが止んだ頃に数回、銃声が響いた。


「どれくらい残ってる」

 グローブを直しながら気怠げに三蔵が口を開くと、階段を下りた悟浄が顔を出した。

「んー、中は両手で足りるくらいじゃね」

 さっきのでだいぶ減ったっしょ、と鍵の掛かっていないドアを開ける。中は閑散としていて、人間の手が届かなくなってからだいぶ経つのが見てとれた。

「つか三サマはあっちいなくて良かったわけ?」

 俺ひとりでも動ける案件よ? 脚を持て余すようにドアを押さえてフロアを見渡す悟浄に、ちらりと一度だけ視線を移した三蔵が中へと身を滑らせる。

「あの店はあいつに任せてある」

 今夜は桃龍楼に来客の予定があった。表と裏、どちらでも懇意にしている数少ない企業で、対応を八戒に一任すると決めたのは三蔵だ。

「まぁ普通に営業中だし? 猿もいるなら大丈夫か」

 俺のこと心配してこっち来たのかと思ったわ、とふざけた笑みと緊張感のない声が向けられて、三蔵のこめかみがひくりと苛立ちをあらわにする。そんなことは気にせず、悟浄はへらりと目を細めた。

「うちのボスったら素直じゃねぇのな」
「……ふざけんのはツラだけにしろ」

 次の目的階へと移動を始めながら、軽口を叩き合う。お互いの手には得物、ポケットには愛煙する煙草。
 仕事がなければ馴染みの酒場でグラス片手に美人とその場限りの会話に花を咲かせている頃なのに、と悟浄は踊り場で足を一旦止めた。

「多分いる。俺らのほうから出向く?」

 お話し合い、はする気ないみたいだし。振り返ると眉間に皺を刻んだ三蔵があぁ、とサングラスを外す。それを見た悟浄は口角を上げた。

「珍しくやる気じゃん」
「あの組は前にも好き勝手やってやがる。灸を据えんとな」

 この一帯に居を構えるのなら、ある程度のルールに従ってもらう必要がある。一度目は大目に見ても、二度目は容赦しない。誰でもチャンスはあるが、裏の社会のほうが規律には厳しい。

「そーゆーコト。でも普段は隠居気味なのに動き回って平気? 運動不足でギブとかなしよ」
「先に撃たれたくなきゃ黙って行け」

 おー怖、なんて肩を竦めて。さっさと終わらせてこんな埃臭い建物から出よう、野郎の相手を長々とするほど暇ない、と鉄パイプを持ち直す。

「はぁいみっけ。お宅ら誰のシマで許可なく捌こうとしてンだっつーの!」

 先陣を切る悟浄の髪が灰色の中で踊る。鈍い音と顔も名前も知らない誰かの声が響く。くだらない。そう思いながら三蔵は自分に向けられた殺意に銃を構えた。


 廃れた雑居ビルはものの十分で静けさを取り戻す。転がった人間の形をしたものを蹴り飛ばして、ふたりは一階へと向かう。

「はぁ〜、やっと終わった。なぁ見て、この服汚すと八戒が怖ぇから返り血ひとつ付けてないの」

 コレ使ってよ? 褒められても良くね? くるりと手元で遊ばせる長物についた汚れを見ながら悟浄は唇を尖らせた。それから煙草を取り出そうとする三蔵を呼び止める。

「ご褒美、弾んでよ三蔵サマ」

 楽しげな声に不機嫌さを隠さず、三蔵は振り返る。

「……ふん、相手は雑魚共だったろうが」

 咥えた煙草へと火が点く前に、悟浄の指先がそれを摘んで取りあげる。文句が出るより先に吐息が唇へとかかった。

「じゃあこれだけもーらい」

 返事を待たずに苦みを吸い込む筈だった唇が塞がる。フィルターに巻かれた紙よりも柔らかな感触が重なって、離れていこうとするのを三蔵の手が引き寄せた。

「それで足りるのか、安いな」
「なに、太っ腹じゃん」

 噛み付くみたいに下唇を食まれて、薄く開いたところに舌先がぬるりと入り込む。ゆったりとしたジャケット越しに腰を抱かれて生温い舌で口内を撫でられて、悟浄の吐息が静まり返った空間に漏れた。

「っン、」

 一度離れた唇が乾く前にまた重なる。久々の共同作業に興奮した? なんて余計な台詞が出ることはなかった。

「ふ……ッ、さ、んぞ」

 持ったままだった火の点いていないマルボロを落とした時、ざざ、と興が醒めるような靴音が耳に届く。

「……あ」
「ッチ」

 間の抜けた声と苛立ちのこもった舌打ちがほぼ同時に音の方へ向く。そこには先ほど逃れたであろう一人が捨て身覚悟で武器を構えていた。

「せっかくイイ雰囲気だったってのに」

 てか見られたけど、どうするよ?
 呆れたように息を吐く三蔵の考えていることを察して、まぁそうね、と唇を舐めた悟浄が相槌を打つ。
 意味をなさない声をあげる男が足を動かした刹那、悟浄の腕が空を切って鉄パイプが飛んだ。狙い通りに武器を持つ手に当たり男が怯むと、その瞬間に銃弾が額に撃ち込まれる。驚きと恐怖で目を見開いたまま、男はコンクリートの上に崩れ落ちた。

「どうするもこうするも、これで問題なんざねぇんだよ」
「確かに」

 帰って続きしちゃう? ポケットの中のくたびれたハイライトの箱を取り出す悟浄を横目に、三蔵も吸い損なった煙草をもう一本手にする。後のことは掃除屋に任せればいい。

「……直帰すると八戒に連絡しておけ」
「りょーかい」

 語尾にハートを付けたようにご機嫌な声に小さく三蔵が舌打ちをする。それでもふたりが今から向かうのは同じ部屋で。それを目撃したのは、欠けた月だけだった。