慣れない温度
ど~~~~してもシャンプー台でヤっていただきたくて。
果たしてそこまで辿り着けるのか…?
乞うご期待です。
「──遅い」
低く冷えた声に、沙悟浄は舌打ちを飲み込んだ。
待たせたのは事実だ。スタジオの撮影が長引いたせいで、約束の時間を五分ほど過ぎてしまった。
が、だからといって、この目の前の男に詫びる気にはなれない。
「悪ぃな。巻きでやったけど、どうしても押しちまった」
「言い訳はいらん。椅子に座れ」
玄奘三蔵──業界で知らぬ者はいない、カリスマ美容師。
ファッション誌の表紙を飾るトップモデルから、テレビで活躍する芸能人まで、彼にセットをして欲しいと望む者は後を絶たない。
そして、悟浄は──その彼に、どういうわけか気に入られたらしい。
(……気に入られた、ってのが適切かどうかは分かんねぇけどな)
鏡越しに、三蔵の紫暗の瞳と視線がぶつかる。
その冷たい光を宿した瞳の奥に、何を考えているのかは分からない。
「……ほら、さっさとやれよ。俺の髪、アンタしか触れないんだろ?」
悟浄の軽口に、三蔵は一瞬だけ目を細め──そして、無言でコームを手に取った。
丁寧にゆっくりと髪を梳かし、髪質をしっかりチェックしていく。
「しっかり乾かせと言っただろうが」
「自分でやるの、面倒なんだよ」
「手入れするのもてめぇの仕事だろ」
「そうかもしんないけどさ~」
三蔵はコームを置くと、シャンプー台の方へ歩いていく。
いつもの流れなので、悟浄も黙って付いて行った。
「さっさとしろ」
「はいはい」
シャンプー台の椅子に座ると、首にタオルを巻かれる。その上からケープも巻かれ、椅子がゆっくりと倒された。
これから髪を洗われるということに悟浄はわずかに緊張してしまっていたらしい。
「まだ、不安か?」
そう聞かれ、フッと笑った。
まだ体が微かに強張るのを気づかれるくらいには、付き合いが長くなったということか。
「全然」
頭を支える三蔵の手が思ったよりも温かいことに気づくが、気にしないふりをして目を閉じる。
三蔵は無駄のない手つきでシャンプー台のレバーを調整し、ぬるま湯を手のひらで確かめてから、慎重に悟浄の髪に流し始めた。
水の音とともに、柔らかな湯気が立ち上る。
「大丈夫か?」
水流が心地よく、思わず息を吐き出す悟浄。その問いかけに、少し掠れたた声で答えた。
「大丈夫」
その後の三蔵は無言で、丁寧に髪全体を濡らしていく。
次に、三蔵はシャンプーを手に取って泡立てながら、悟浄の髪に優しく馴染ませていく。指先が髪を撫でる度に、悟浄は微かに体を震わせた。
三蔵はそれに気付いていながらも手を止めない。悟浄の髪を指先で揉みこむように洗うその手の動きが思いのほか優しくて、どこか安心感を覚える。
シャンプーをしている時が、三蔵が一番優しくなる瞬間だった。
水流に泡が溶ける音と、髪がすべるような感触が心地よく、悟浄はしばらく無言でそのまま目を閉じている。
悟浄は、本来髪を触れるのが苦手だった。
今でこそ、こうして三蔵に身を任せているが、どうしても他人に髪を触られるのには不快感があった。
それは、過去のトラウマから来ていることはわかっているのだが、どうしようもなかったのだ。
理髪店で切ってもらうこともなく無駄に伸ばした紅い髪。
縁があってモデルという仕事をするようになったが、この長い髪は案外ウケがいいようだった。
それでも、ある程度の長さで切りそろえたり、痛まないような手入れは必要だった。
人に触られたくなくて、自分で出来ることをしていたが、セルフカットだけはマネージャーに文句を言われてしまった。
その時、初めて雑誌の表紙を飾ることになっていたため、どうしても強引に美容室に連れていかれたのだった。
そこで出会ったのが、三蔵だった。
マネージャーがこの人ならば、と強引に予約を捻じ込んだらしく、大変不愛想な接客だったが、態度と裏腹な仕事ぶりに大層驚いたものだった。
媚びるような視線もなく、下手な機嫌取りもない。なんなら、最低限の会話すら皆無である。
おかげで、髪を触られることにじっと耐えることができたが、小さな震えはごまかせなかった。
「割り切らねぇと、この先困るのはお前だ。次回までに何とかしておけ」
最後に、そう言われたことを覚えている。
そんなことはわかっているし、できたら苦労してねぇんだよ。とは思ったが、無理やり時間を作ってもらった手前、その時は文句を言うことができなかった。
それに、今までになく髪がさらっさらのツヤツヤになっていて、文句をつけようものならマネージャーに笑顔で絞られると思ったのだ。
同い年のマネージャーは、笑顔の時ほど怖い人なのである。
それから何度か三蔵の店に無理やり通わせられるようになり、悟浄が何か言う前に椅子に座らせられ、カットが始まるようになったのだった。
嫌だという隙もなければ、三蔵の店に行くスケジュールは極秘にされて逃げることもできない。
それに、他人に髪を触られると吐き気がしていたのが、どういうわけか三蔵に触られるときには体の震えだけで済んでいる。
それを満足そうに眺めてから店を出ていくマネージャーを鏡越しに睨みつけるのだが、毎回笑顔でかわされるのだった。
「おい、起きろ」
三蔵の低い声が耳元で聞こえた。どうやら目を閉じたついでに眠ってしまっていたらしい。
「暢気に寝てんじゃねぇよ」
「ん、いや、わりぃ」
まだ眠い目を擦り、シャンプー台から移動してドライヤーをかけられる。
暖かい風に再びウトウトしてしまった。
ここ数日、撮影やインタビューが立て込んであまり休めていなかった。
三蔵の店は三蔵1人で経営しており、常にお客は1人ずつの対応。お店もこじんまりしているが、インテリアもセンスがよくて心地良い。
プライベート空間である安心感と、三蔵の手の心地良さと、ドライヤーの温かさ。
「おい、終わったぞ」
ぐぐっと悟浄は伸びをした。首をぐるぐる回して、しっかり目を覚ます。
相変わらず、仕上がった髪はサラサラでいい匂いがしていた。
三蔵が選ぶオイルの香りはいつも違うが、不思議とどれも落ち着くものばかりだった。
(……結局、ここに来るのが一番楽なんだよな)
小さく息を吐きながら、悟浄は片付けをする三蔵の背中をちらりと見る。
この手に触れられるのが嫌じゃなくなったのは、いつからだったか。
「ほら、とっとと行け。次の客が来る」
淡々とした声に、悟浄は「へいへい」と軽く手を振る。
店を出る直前、ふと振り返ると──三蔵の視線が、こちらに向けられているのがわかった。
紫暗の瞳に映る自分が、なぜか名残惜しい顔をしていた気がして、悟浄は小さく笑うのだった。