夜の果てまで
牙を剥く悪意
日が傾き、空が赤く染まり始める頃。
悟浄はジープに見守られる中、一人裏庭で錫杖の出現時間を測る練習をしていた。
八戒は夕食の準備で家におり、夜詠も帰宅したばかりだ。
魔力の扱いにも慣れてきたと思っていたが、五分を超えると腕が痺れ、視界がゆらめく。やがて、顕現していた錫杖がふっと光の粒となって消えた。
「はぁ、やっぱまだまだだな」
額の汗をぬぐい、庭石に腰掛けた瞬間だった――
ヒュンッ
微かな気配に、悟浄は反射的に身を捻った。
だが次の瞬間、鋭い針のようなものが悟浄の首に刺さる。
「キュウッ!」
ジープが悟浄を守ろうと飛んできたが、悟浄の元へ辿り着く前に球体状の結界に囚われてしまった。
「……ッ、誰だ!」
影から現れたのは、黒装束の男だった。
装束と同じ黒い布で、顔を目の下まで隠している。
「あなたを“保護”しに来ました」
そう、男が言った。
「冗談……じゃねぇぞ!」
悟浄は再び錫杖を顕現させようとするが、先ほど限界を超えていた影響で魔力がほとんど残っていない。無理やり力を絞り出し、指先に光を灯すも、それは儚く弾けて消えた。
そして最悪なことに、視界がぼやけ始めている。
先程刺さった針は毒かなにかだろう。
八戒に助けを求めようとしたが、既に喉まで痺れて声が出ない。
「大人しくしていてもらいますよ」
男は悟浄の腹に手を当て、魔法を発動した。
衝撃に息が詰まり、最後に見えたのは、自分の口から出た血で濡れる地面だった。
崩れ落ちる悟浄を男は抱きとめ、ジープを結界ごと引き寄せると、夕闇の中へと消えてしまった。
「悟浄ー? そろそろ夕飯ですよ? ……ッ!」
「八戒様!!!」
八戒が異変に気づくのと、夜詠が飛び込んでくるのはほとんど同時だった。
「直前まで全く異変はなかったはずですが、突然ジープ様の反応が薄れ、悟浄さんの反応が消えました。これは一体……」
「僕もジープとの繋がりが切れてしまっています。何者かに妨害されていると見ていいでしょう。……ッ油断しました。夜詠さんは今すぐ三蔵の元へ。一刻も早く悟浄を探さないと」
夜詠は頷くと、三蔵の元へ向かって走りだした。
「僕はまた、同じ過ちを……!」
八戒は拳を握りしめる。
三蔵と関わることでこうなることは予想がつくことだった。
だから自分と夜詠を悟浄の傍に置いたはずなのに、結果はどうだ。
短時間でスキを突かれ、まんまと悟浄を攫われてしまった。
八戒は自分への怒りに身体を震わせ、思い切り両頬を叩いた。
「後悔先に立たずです。何か手がかりを探さないと」
***
「悟浄が攫われた――だと?」
三蔵の声音は一見冷静だったが、手にした報告書を握る指先に力がこもる。
夜詠は息を切らしながら頷いた。
「はい。八戒様もすぐに捜索に移られると」
三蔵は立ち上がると、すぐに悟空を呼びつける。
「悟空、先に行け。八戒と合流して悟浄の痕跡を追うんだ」
「わかった」
悟空は既に準備運動をしながら答えた。
悟空の瞳に宿る怒りと焦燥は、三蔵自身のそれと似ていた。静かに燃える憤りが、胸の奥で形を成していく。
三蔵の支持を受けるや否や、あっという間に走り去っていった。
(怪しいのは……蘭家あたりか……)
ここ数日、水面下で不穏な動きがあるという報告は受けていた。悟浄の存在が貴族連中に知られてしまったのだとすれば、彼を狙う理由も合点がいく。
魔力供給実験に関して口を割らせるか、実際に想定される実験を再現するか、あるいは―――三蔵を揺さぶる人質として。
「クソッ!」
三蔵は滅多に見せない苛立ちをあらわにして、壁を拳で打ちつけた。
「三蔵様、申し訳ございません。私が傍にいながら……」
「謝罪は後だ。今、分かっていることを報告しろ」
「……はい。私が帰宅した時点で、悟浄さんは裏庭で魔力の制御訓練をされていたようです。八戒様は夕食の支度中でした。ジープ様は傍におりましたが、突然反応が弱まりました。殺されたのではなく、結界魔法か何かで封じられた可能性が高いです。そして、その直後に悟浄さんの反応も途絶えました」
「探知魔法の結果は?」
「空間にわずかな残留魔力が確認できました。移動系の魔法――おそらく強制的な転移が使われた形跡があります。ですが、転移先の特定には至りませんでした。敵側がかなり高度な遮断魔法を使っていると思われます」
「……お前の探知で追えないとなると、並の手合いではないな」
「はい。私の不甲斐なさを痛感しております」
「残留魔力に見覚えは? 過去に捕らえた者や、登録済みの魔術痕跡と照合は?」
「該当する反応はありませんでした。未登録の魔術、もしくは他国の可能性も否定できません」
「こちらでも、疑わしい貴族どもから順に洗う。リストはあるな?」
「はい。すぐに提出できます」
「今使える駒を総動員しろ。足がかりが一片でもあれば追える。時間との勝負だ」
「承知いたしました。必ず手掛かりを見つけてみせます」
夜詠の足音が遠ざかり、執務室に再び静けさが訪れる。
三蔵は椅子の背に身を預け、目を閉じて静かに息を吐いた。
しかし、その胸の内は決して穏やかではなかった。
―――この短期間で、攫われるとは。
八戒も夜詠も傍にいながら、防げなかった。それだけ相手の手際は鮮やかで、狙いは確実だった。
標的は、“悟浄”。
その意味を、三蔵は痛いほど理解していた。
これは偶然ではない。誘拐でも、脅しでもない。もっと根深く、明確な意図がある。悟浄が“選ばれた”――いや、“狙われた”のは、他でもない自分のせいだ。
拳に力がこもる。
(俺が……あいつを、選んだからだ)
魔力供給の実験を急ぎすぎた。
慎重であるべきところで、焦りが出た。
悟浄が魔力を扱えるようになったことで、注目を集めてしまったのだ。
どこかで一人、恐怖の中に囚われているかもしれない。そう思うだけで、喉元が焼けるように痛んだ。
「……必ず、取り戻す」
ぽつりと漏れた声に、自分自身が驚く。
それは政治的判断でも、立場としての責任でもない。
もっと深く、もっと個人的な――ただの一人の人間としての、決意だった。
三蔵の中で、これまで触れたことのない感情が、静かに芽吹き始めている。
(……感情は、後回しだ)
椅子を起こし、手元の書類を整理し始める。思考はすでに、次の一手へと向かっていた。
盤面は崩された。ならば、再構築するだけだ。
悟浄を奪ったことを、心底から後悔させてやる。
「必ず、取り戻す」
確かめるように、もう一度。
三蔵は静かに言葉を繰り返した。