夜の果てまで
器の素質
意識が戻った時、まず感じたのは全身を包む鈍い痛みだった。
悟浄はうめくように息を吐き、ゆっくりと目を開ける。そこにあったのは、見覚えのない天井。冷たい石造りで、どこか地下のような湿気が漂っている。
身体を動かそうとして、思うようにいかないことに気づく。両手首と足首に拘束具がつけられていた。
身体の節々にはまだ痺れが残っていて、毒の余韻か、それとも魔法の影響か判然としない。
(……クソ)
声に出そうとしても、口の中が乾いて舌が張り付き、掠れた呼吸しか出てこなかった。
視線だけで周囲を探る。
薄暗い空間には古びた魔術陣と、見たことのない魔道具が並んでいた。結界のようなものが空間を囲っており、ジープの姿も見当たらない。
(ジープは……無事なのか?)
記憶を遡る。
刺された針、鈍い痛み、視界がにじむ中で見た黒装束の男の顔、そして――血の味。
悟浄は奥歯を噛み締めた。
どれほど時間が経ったのか分からない。だが、このままじっとしていたところで、状況が好転するとは思えなかった。
(逃げ道は……ないのか?)
錫杖を出そうとしてみたが、身体の奥に流れる魔力が糸のように細く、冷たく、力にならない。
逃げ出せない。誰かを呼ぶこともできない。ここがどこなのかすら分からない。
その時だった。
ギィ、と鉄の扉が軋み、足音が近づいてきて悟浄は顔を上げる。
現れたのは、悟浄を攫った黒装束の男だった。相変わらず顔は目元まで布で覆われ、表情を伺うのが難しい。
「目が覚めましたか。気分はいかがです?」
「……誰、だよ」
掠れた声で悟浄が言う。
男は笑みのようなものを浮かべたようで、顔を覆う布が微かに揺れる。
「フフ、答えるとでも? あなたには――“器”としての素質がありますか?」
「うつ、わ?」
「確かめるだけですがね」
男が魔道具に手を伸ばした瞬間、空気が冷たく張り詰めた。
悟浄は無意識に身を縮める。
直感が告げていた。この先に待つのは、三蔵と行ったようなただの実験なんかじゃない――もっと、取り返しのつかない何かだ。
(やめろ……誰か――!)
喉がふさがれたように、声が出なかった。
ただ胸の奥で、必死に叫ぶ。
(八戒。夜詠。悟空。―――三蔵ッ!)
「どうか、壊れないでくださいね」
男がそういうのが遠くで聞こえた。そして、じわじわと熱が体の内側を焼く感覚。
「ぐ、ぅ……ク、ソ、が……!」
男の手にする魔道具から魔導回路が引かれているようで、光る線が複雑に絡み合いながら悟浄まで伸びている。
そこから重たく粘土のある液体のような魔力が体の中に流れ込んでくる感覚。
三蔵から流れてきたのは、熱いけれど綺麗に光る透明な水のような魔力だった。けれど、これは全くの別物だ。
どんどん身体が重く、熱く、胃が焼けるように痛む。
猛烈な吐き気に襲われるが、乾いて張り付いた口からは無様な呻き声しか出てこない。
「やはり、皇帝を経由して魔力を受けたのですね! 経路が既にできているようです。あとはどこまで耐えられるか、でしょうか?」
「やめ、ろ、……があぁぁッ!」
混濁する意識の中で、ふと、誰かの姿が浮かんだ。
煌めく金糸の髪に紫水晶のような瞳。
意外な程自分を優しく呼び「大丈夫だ」と繰り返し囁く声。
「たす、け……さん、ぞ……」
その名を口にした時、悟浄の胸の奥が別の何かで熱くなった。
(三蔵なら、きっと……見つけてくれる……)
一分、一秒が果てしなく長く感じる。
あっという間に悟浄の身体は限界に近づいていた。
焼けつくような痛みは内臓にまで達し、皮膚の上には黒い紋様のようなものが浮かび始めていた。魔力に耐えきれず、回路が歪み始めている証だ。
「実験体にしては、なかなか優秀ですね……これなら“あれ”にも――」
男の言葉は、悟浄にはもう届いていなかった。
意識は深く沈み、感覚は薄れていく。
そしてその闇の中、ふと――。
優しく髪を梳くような手の感触を思い出した。
違う。そんなこと、三蔵はしたことがない。少なくとも、悟浄に覚えはない。
けれど、脳が勝手に“ありえたかもしれない出来事”を夢のように繋ぎ始める。
「お前は、ここにいていい」
「役立たずじゃねぇよ」
「俺にはお前が必要だ」
その言葉のひとつひとつが、心の奥で何かを震わせた。
(こんな時、何で……思い出すのが、あいつなんだ)
痛みに濁った思考の中で、悟浄は自問する。
(あいつに……見てほしかった? 役に立つって、思ってほしかった? ――違う……いや、違わねぇかもしれねぇな)
あの日、ただの気まぐれだったとしても、悟浄の命を繋いでくれた。そして、悟浄が生涯持ち得るはずのなかった沢山のものを与えてくれた。
いつも傍にいたわけではないし、三蔵の目的を成すための駒のひとつに過ぎないのかもしれない。
それでも、神殿で悟浄を満たした三蔵の魔力は、ただ熱いだけではない心地良さがあった。
悟浄はかすかに唇を動かした。
「……さんぞう」
血の味と共に漏れ出たその声は、ほとんど音にはならなかった。
けれど確かに、そこには“祈り”があった。
ただの仲間じゃない。
ただの利害関係でもない。
その奥にある、もっと説明のつかない何か。
それを抱いた瞬間、悟浄の中で“生きたい”という強い意思が再び灯った。
(まだ……終わりたくねぇ)
(まだ、役に立ててねぇだろ!)
その刹那。
悟浄の魔力が、不意に激しく脈動した。
術者の男が眉をひそめた。
「……ほう? 面白い反応ですね。意識の底に、まだ火種があるのですか」
男は魔導具を一度引いた。そして布の下から、ぞっとするような声で囁く。
「もっと、深くまで見てみましょう。あなたが“どれほどの器”か――」
再び、魔力が流れ込んでくる。
しかし今度は、悟浄の内側に、それを“跳ね返そうとする”何かが生まれていた。
それは本能。
悟浄の中に芽吹いた種。
そして――名もなき感情のかけらだった。
その瞬間、
「おぅりゃっ!」
鉄の扉が勢いよく開け放たれ、悟空が飛び込んできた。
「思ったより早かったですね」
「アンタが悟浄を虐めてんの? 俺、許さねーかんな」
「おお、怖い怖い。もうデータは十分です。皇帝様にお伝え願えますか?」
「わりーけど、自分で言ってよ」
「次はお目にかかりましょう、と。ではまた」
「あっ! 待て!」
男は部屋の石壁の魔法陣を発動すると、溶けるように消えてしまった。
男が消えた後に魔法陣は燃え上がり、ご丁寧に痕跡が追えないようにして。
残されたのは、焼けた石壁と煤だけであった。
「悟浄! 悟浄! もうすぐ三蔵も来るから! 死なないで! 悟浄!」
「うる、せ、死ぬか、よ……」
悟空の腕の中で、悟浄は意識を手放したのだった。