夜の果てまで
忍び寄る悪意
八戒の過去について知ってから数日、再び平穏な時間が流れていた。
二人の間の絆は深まり、相反するように見える性格は、まるで太極図のようにピタリとハマったようだった。
後ろめたい気持ちがなくなったからか、八戒は悟浄に断って花喃の元へも通うようになり、八戒がいない間は夜詠(やえ)とジープが悟浄の傍についていた。
しかし、やることと言えば護身用の魔法を出す練習くらいのもので、今では悟浄も立派な錫杖を出せるようになっていた。ただし、顕現させられる時間は5分程度と短い。
「夜詠ちゃんどうよ! これなら大抵の敵は倒せると思わね?」
「そうですね……。中から鎖が出てくるのには驚きました。ですがやはり、時間と大物ゆえの隙が気になります。もう少し小ぶりの、三蔵様のような飛び道具の方が良いのではないでしょうか?」
「だーかーらー! 三蔵と一緒じゃつまんねぇだろ? それに、せっかくのこの長身を生かさねぇのは勿体ないってもんよ」
「そういうものでしょうか?」
「そうそう。だから、今日も手合わせお願い出来る?」
「昼食の用意の時間まででしたら、お相手いたします」
「今日の飯も楽しみにしてるぜ」
「どちらも全力を尽くさせていただきます」
「じゃあ行くぜッ」
悟浄は中空から錫杖を手に取り、風を裂く音とともに夜詠へ斬りかかる。
大振りながらも重心のぶれない一撃。対する夜詠は、地を滑るような動きで後退し、その直撃を難なく回避した。
「ちぇっ、やっぱ読まれてるな!」
「初手の構えから全て見えております」
夜詠の声は涼やかだったが、その目は真剣だ。すでに次の動きに備え、身体をわずかに傾けている。
悟浄は足元に魔力を流し、跳ねるように間合いを詰めた。
が、それすらも予測済みだったのか、夜詠は右足を軽くずらし、悟浄の肩の真横をすり抜けて回り込む。
「魔力の扱いがお上手になりましたね。ですが、甘いです」
「ちょっ、うおっ!」
直後、背後から伸びた夜詠の指先が、悟浄の腰の一点に命中。軽く突かれただけのはずなのに、悟浄の体が一瞬ひるんだ。
「まだまだ隙が大きすぎます」
「くっそー……可愛い顔でそんな攻撃してくるの反則だろ!」
「甘く見ていただける方がありがたいです」
夜詠の攻撃は決して強打ではない。探知に特化しているため、戦闘力はそれほどではないという。しかし、範囲を限定しつつも常時探知魔法を展開し、絶えず周囲の魔力の揺らぎを感じ取れるのは十分反則技だ。悟浄のわずかな気の変化や動きの兆しを、まるで空気そのものを読むかのように捉えているのだ。
悟浄は唇を噛み、錫杖を再び構え直した。
「次ッ!」
地を蹴り、渾身の力を込めて錫杖を振り下ろす。夜詠は横へとかわす……が、すぐには退かない。
そのすぐあとに、悟浄の手首を掴み、ぐるりと一回転。流れるような動きで体勢を崩す。
「なっ……!」
「力任せだけでは通じません。……ですが、思ったより素直ですね、悟浄さんは」
いつの間にか背中に取られていた。
首筋に手刀を添えられ、息を呑む。
「……負けた」
悟浄がそう呟くと、夜詠は手を下ろし、微かに笑った。
「あと三秒でしたね。錫杖の制限時間、そろそろです」
悟浄の手から錫杖がすうっと溶けるように消える。
「そっか、もうそんなにか……。でも俺、確実にうまくなってるよな?」
「ええ。初日に比べれば、目を見張る進歩です。……ですが」
夜詠はスッと距離を取り、優雅に一礼をした。
「本番があるとすれば、もっと手強い相手が来ます」
「……だな」
悟浄は額の汗を拭いながらも、口元に笑みを浮かべた。
夜詠の伸ばされた手をつかみ、弾みをつけて立ち上がる。
「八戒もそろそろ戻ってくる時間だな」
「そうですね。昼食の準備をいたしましょう」
「俺は一服してから戻るわ」
「お気を付けください。私の探知の範囲から出ないようにお願いいたします」
「わかってるって。そう遠くに行きやしないから」
三蔵から貰った煙草に火をつけ、悟浄は訓練後の息抜きをするのだった。
―――場所は変わって、帝都貴族街のとある屋敷にて。
天井の高い客間の空気は妙に重く、装飾過多な絵画と骨董の数々が鬱々とした陰影を落としている。
室内にいるのは蘭家当主、蘭 翔耀(らん しょうよう)――、壮年の男でありながら白粉を思わせるような陶器の肌と細めた目が、得体の知れない不気味さを漂わせていた。
「何か新しい情報は?」
吐き捨てるような声に、目の前の従者が小さく肩をすくめて答える。
「いえ……。三蔵殿は未だに聖光宮と貴族街を出入りするばかりで、大きな動きは……」
「違う。奴は何かを隠している。あの男の静けさは、何かを仕掛ける前兆だ」
翔耀は苛立たしげに扇子を閉じて机を叩いた。
すると、そこへふっと、部屋の隅の影が揺れる。
「失礼」とも「お邪魔します」とも言わず、ふらりと現れた男――黒衣に身を包み、眼鏡の奥で怪しく笑っているのが不気味だった。
「お久しぶりです、翔耀殿」
「……烏哭か」
蘭翔耀は眉ひとつ動かさず、ただ唇の端をわずかに吊り上げた。
「貴様、前回の薬はどうなった? あれでは貧民共もすぐに死んでしまう。使いものにならん」
「人死には結果です。目的は混乱の種まきですから。ですが、今日はもっと面白いものを持ってきましたよ」
烏哭は懐から数枚の紙を取り出し、翔耀の机の上にふわりと置いた。
それは報告書のようだったが、記されていたのは明らかに裏の手段で収集された情報だった。
紙の中に記されていた名――「悟浄」の文字に、翔耀の目が細く光る。
「これは……?」
「皇帝様の周囲にいる、異端の存在。かの魔力供給実験で『魔力量の低い貧民出身者が、魔法を行使するようになった』という記録も」
「それが……この男だと?」
「ええ。興味深いでしょう? 皇帝様が最近、帝都内に仮住まいを設け、彼を隠すように保護しているのも事実だとわかりましてねぇ」
翔耀は紙を片手でつまみ、目を細める。
「これは……使えるな。面白くなってきた。新しい“交渉材料”としては十分だ」
「ご満足いただけたようで、何より」
烏哭はにこりともせず、ただ影のように静かに頭を下げた。
陽の当たらぬ情報と欲望が交錯するその部屋で、静かに歯車は回り始めていた――。