夜の果てまで

悟浄奪還

 悟浄がまだ気を失っていた頃、悟空は八戒と合流し、周囲の痕跡を探っていた。

「悟空、どうですか? 何かわかりましたか?」

「んん……。すっごく怯えてる、微精霊たち。悟浄に付いてる子はたぶん一緒にいるけど、ほとんど反応なし……」

 悟空は裏庭をゆっくりと歩きながら、ときおり立ち止まっては何かに話しかけるような仕草を見せる。

 八戒の元に飛び込んできたときは怒りで周囲の魔力が揺らめいて見えるほどだったが、話を始るとすぐに冷静さを取り戻し、あたりを丹念に調べ始めた。

 こんな状況ではあるが、三蔵と出会ったばかりの頃の悟空を知る八戒としては、その成長が微笑ましくも感じられるのだった。

「せめて、ジープの居場所がわかれば、そこから――」

「とにかく、怪しそうなとこ全部行ってみようよ。敵の姿は、なんとか微精霊が覚えてくれてたみたいだし。それで聞き込みしてみよ!」

「なるほど……では、人相書きを作りましょう。特徴を教えてください」

「んーっと、全身黒くて……」

 二人は家の中に戻り、誘拐犯の人相書きを作り始めた。

 ――その頃。

 

「三蔵様、リストから特に怪しいものを選定いたしました。いかがなさいますか?」

「常に見張らせろ。一番怪しいところから順に俺が行く」

「既に配置しております。何かわかれば、悟空様にもすぐ連絡が行くようにしてあります」

「よし、行くぞ」

「はい」

 夜詠は、多いとは言えない三蔵の配下を総動員し、怪しい動きを見せた貴族の屋敷を片っ端から洗い出していた。

 転移魔法に長けた者を連れ、自ら全ての現地を回って探知魔法を展開する。夜詠自身の魔力は尽きかけたが、魔道具で補いながら無理を押して続行した。

 夜詠にとって、この失態は自分を許せないものだった。

 ――悟浄という存在が、いつの間にかそれほど大きくなっていた。

 

 夜詠は、元々とある貴族に買われ、奴隷として生きていた。この国では珍しくもない、魔力を吸い取る“魔力狩り”の対象として選ばれてしまったのだ。

 父母とは生き別れとなり、双子の兄ともはぐれた。探知魔法の素質を買われ、御しやすい年齢の自分だけが攫われたのだと、後に知った。

 三蔵が皇帝となってすぐ、奴隷制度は廃止された。その折、帰る家を持たない者、帰りたくない者には、新たな身分と仕事が与えられた。夜詠もその一人だった。

 生まれ故郷に戻ってみたが、家族の姿はなかった。誰かの記憶にさえ、家の名前は残っていなかった。きっと国外へ逃れたのだろう、と納得するしかなかった。

 帝都での仕事は、自分にとって初めての「居場所」だった。

 探知魔法の能力を見込まれ、三蔵の任務にしばしば駆り出されるようになった。任務といっても、時に使い走りのようなこともある。けれど、それでも彼女は満たされていた。三蔵の目的を知ってからは、自らの役割に誇りすら感じるようになった。

 

 そんなある日、いつものように呼び出され、任務を受けた。だが今回は、誰かを探せというのではなく――「護衛をしろ」と言われたのだ。

 「私はあまり戦闘が得意ではありません」と言うと、三蔵は「敵を倒すんじゃない。怪しいものを近づけさせるな」とだけ言った。

 どれほど重要な人物なのかと思い緊張しながら顔を合わせに行くと、そこにいたのは、紅い髪と目を持つ男だった。

 乱暴そうに見える外見とは裏腹に、その瞳は不器用な優しさを湛えていて、仕草にはどこか人懐こさすら滲んでいた。

 人を使うことに慣れていないのか、侍女として訪れた夜詠にもまるで友人に接するかのような距離感で話す。訓練の手伝いをしたあと、「ありがとな」と笑って頭をくしゃりと撫でられた。それはまるで、遠い昔、兄に撫でられたときのようで―――、

 

 ……だから、気を緩めてしまった。

 決して探知を怠っていたわけではない。常に探知魔法は展開させていた。だが、気の緩みがあった。

 それが、許せなかった。

 たった一つの綻びが、取り返しのつかない結果を生む。そう教えてくれたのは、過去でも他人でもない。彼自身だった。

 ――まだ、間に合う。そう信じている。信じていなければ、自分はもう立ってなどいられない。

「どうか、どうかご無事で。悟浄さん」

 三蔵と共に貴族街へ向かいながら、夜詠は唇を強く噛んだ。

     *

 石畳に馬車の車輪が軋む音が響く。重厚な門が開かれ、帝都でも古くから続く貴族のひとつ、蘭家の屋敷が姿を現した。

 深い緋色の瓦屋根、精緻な彫刻が施された柱と門扉。周囲に広がる庭には、人の気配が希薄だ。あまりに整いすぎた静けさが、不穏だった。

「……見張りがいないように見えて、隠密が周囲に配置されていますね」

 夜詠が呟くように言うと、三蔵は無言で頷いた。先に回った一軒目は見せしめのように空振りに終わった。だが、ここは違う。直感が警告を鳴らしている。

 中へ通された先、蘭家の広間にはすでに一人の男が待っていた。

 蘭 翔耀――蘭家当主。壮年に差しかかった男でありながら、白粉を思わせるような陶器の肌を持ち、細めた目元に笑みを湛えている。その顔立ちは不自然に整っており、柔らかな口調と裏腹に、得体の知れぬ不気味さを漂わせていた。

「これはこれは、三蔵陛下。ご足労いただけるとは光栄の極みです。……ですが、いったい何のご用向きでしょうか?」

「最近、帝都の外れで怪しい動きがあった。蘭家に関係のある者が関与している可能性があると聞いている」

「ほう、それはまた。帝都の外れと申されますと、土地柄や治安もあまり良くありませんから。家の名を騙る不届き者も多くございましょう」

「とぼけるな」

 三蔵が一歩、前に出る。その気迫に、室内の空気がわずかに震えた。だが翔耀は表情一つ変えず、にこりと笑ってみせる。

「私はただ、事実を申し上げているだけです。どこで、誰が、何をしたのか。具体的な証拠がなければ、どうにも……。陛下ともあろうお方が、噂話に振り回されるとは」

 夜詠が眉をひそめる。翔耀の魔力には隠蔽の気配があった。屋敷全体にも、何重にも結界が張られている。何かを――あるいは誰かを、隠している可能性は十分にある。

「貴様の家で違法な転移痕が複数あったという報告がある。何を運んだ?」

「……はて。それは誠に残念な話ですな。とはいえ我が家の使用人や荷運びは多岐にわたり……何がどこへ移されたかなど、いちいち記録は――」

 三蔵の額に青筋が浮かぶ。だがその時――

 ピクッと夜詠が反応した。それに気づいた三蔵が「どうした」と聞くと、夜詠が三蔵に耳打ちをする。

「緊急連絡です。八戒様と悟空様より、ジープ様の魔力反応を微弱ながら感知したとの報告が」

「わかった」

 三蔵は翔耀をギロリと睨むが、翔耀はあくまで笑みを崩さない。

「貴様の屋敷には改めて調査が入る。逃げても無駄だ」

「お好きにどうぞ。私は常に誠実に、陛下に忠誠を誓っておりますので」

 蛇が獲物に巻き付くような翔耀の声を背に、三蔵は夜詠と共に屋敷を後にした。

 扉が閉まった瞬間、翔耀の顔から笑みが消える。彼はゆっくりと椅子に座り直し、天井を仰いだ。

「さて、陛下はどのような手を打たれますかな?」

 

     * 

「場所は?」

「帝都西端の旧市街にある廃墟群です! 一度転移を経由した痕跡があるようですが、まだ近くにいる可能性が高いと!」

 屋敷を出てすぐ、三蔵は夜詠に命じた。

「転移で移動する。俺たちもすぐに向かうぞ」

「かしこまりました。準備はできております。座標、確認。転移を開始します」

 光が迸り、二人の姿が帝都の闇に溶けた。

     *

「八戒! 状況は!」

「三蔵! ジープの反応はこの下です。廃墟の中に、地下空間が見つかりました。恐らく元は防空壕的な場所ではないかと。今悟空が先行して捜索しています。僕はここで敵の侵入と逃走を防ぐために結界を張りますので、すみませんが夜詠さん、ジープのことをお願いします。三蔵は悟空を追って!」

「……ッ!」

 三蔵は八戒の言葉を最後まで聞く前に走り出していた。

 廃墟の地下へと続く階段は崩れかけた石材が散乱し、足元の不安定さが行く手を阻む。だが、そんなことに構っている余裕はなかった。三蔵は息を切らせながら駆け降りる。

 湿った空気が鼻をつく。長く使われていなかったことは明らかだが、妙に新しい足跡の痕跡が、砂埃の上に点々と続いている。

「悟空――!」

 声を張ると、かすかに返事があった。通路の奥、崩れかけた壁の向こうからだ。

「三蔵ッ! こっち、見つけた! 早く!!」

 声が響いた先、開け放たれ歪んだ鉄の扉の奥に悟空がしゃがみこんでいた。その腕には――

「悟浄……!」

 悟空に抱えられた悟浄の姿。紅い髪は煤けて乱れ、顔にいくつも傷が走っている。衣服もぼろぼろで、皮膚の上には黒い紋様のようなものが残っていた。

 悟空が顔を上げ、必死に叫ぶ。

「まだ生きてる! でも、無理やり魔力を流し込まれてて……これ、きっとヤバいやつ!」

 三蔵はすぐに膝をつき、悟浄の状態を確認した。脈は弱いがある。ただ、悟浄の中にどす黒いものが渦巻いているのが感じ取れた。

「悟空、少しでもこの魔力を吸い出せそうか?」

「……ちょっと待って。やってみる」

 悟空が手のひらをかざし、静かに息を吸い込む。悟浄に意識を集中させると、ぬるりとした黒や紫など暗い色が入り混じった魔力が漏れ出てきた。

 悟空はウッと苦しそうな表情をしたが、顔に汗をかきながら慎重に魔力を吸い出している。その間、三蔵は悟浄の顔を見つめていた。目を閉じたその表情は、どこか安らかにも見える。こんな場所で、こんな姿になるまで、どれだけの時間、どれだけの恐怖を味わったのか――

「……すまなかった」

 小さな声で三蔵が呟いた。

 そのとき――

 バチンッと音がして悟空の手が弾かれた。

「ごめん、これ以上は無理そうッ」

「悟浄!」

 三蔵が名前を呼ぶと、悟浄のまぶたがゆっくりと震え、そして――

「……ぅ……」

 かすかに息を吐きながら、悟浄が目を開いた。焦点が合わない視線が、次第に三蔵の姿を捉え、ほんの少しだけ眉を動かす。

「……さんぞ……来て、くれたの」

 三蔵は言葉にならず、ただ頷いた。

「迎えに来た。遅れて、悪かった」

 悟浄の目に、涙とは違う何かが浮かんだように見えた。だが、また意識が薄れていく。三蔵は悟空に指示する。

「悟空、運ぶぞ。ここをすぐ離れる」

「うん……!」

 一方、悟浄の捕らえられていた部屋から離れた下水道の通路で、夜詠がジープを見つけていた。

 結界の中で自分が傷つくほど暴れたのか、あちこちに痛々しい痕が残っている。しかし、その甲斐あって、ジープを捕えていた結界が弱まり八戒にその場所を伝えることができたのだ。

「ジープ様……ご無事でよかった」

 ジープを両手で抱え上げながら、そっとその背を撫でた。

「悔しい、ですよね。……もう安心してください。すぐに八戒さんの元へお連れします」

 その瞳に浮かんだ決意の色は、護衛という任務以上に、個としての想いを物語っていた。