夜の果てまで
【幕間】皇帝の心
皇帝になったのは、やむを得ずだった。
なりたくてなったわけではない。
信用のおける味方は少なく、敵は多い。
当然、苦労も絶えない。
それでも、成し遂げなければならないことがある。
ただ、それだけだった。
その日は本当に、手持ちの駒を増やせればという視察のつもりだった。
八戒には聖光宮での調査を進めてもらい、悟空はいつものように護衛。
聖光宮から出ることも減った最近では、外に出ると悟空は大抵食べ物につられてあちこちへと駆け回る。それに対して「護衛が傍を離れるなんて」と苦言を呈す者もいたが、いざと言う時には必ずそばに居るので文句を言う者も減っていった。
そんな悟空が珍しく、俺の近くを離れない。どうしたと聞いても、曖昧な返事しか返ってこない。理由は分からないが、どこか落ち着きのない様子に俺も自然と警戒していた。
そこに突然現れた、真っ赤に燃え盛る火球。
俺に向かって飛んでくるのがスローモーションで見えて、それが火球ではなく人だと気づいた。
悟空が防ぎ、俺にどうするかと聞いてくるまでの短い時間で、たくさんの事が頭の中を駆け巡った。
俺に向かってくる悟浄の流れるような紅い髪と柘榴石のような瞳が綺麗だと思ったこと。
悟浄の表情に、帝国民の生き辛さを垣間見たこと。
貧民街に生きる庶民が俺に向かってくるのにどんな覚悟をしたのかと思ったこと。
地に伏す姿に、惜しいと思ったこと。
―――悟浄のような人間が今尚産まれているのは、自分のせいだと思ったこと。
その場で行動を起こした気概が気に入ったというのは嘘ではなかったが、あまりの計画性の無さには呆れていた。
どんな人物なのかと八戒の報告書を見ると、あんな馬鹿な真似をするような人とは考えられないといった内容だった。
拘束されても大人しく、泣き喚くでも暴れるでもない。どこか諦めているようで、でも、その瞳には小さな火が灯っているようだと。
悟空の直感と八戒の考察、そして悟浄について調べあげた調査書。これらを持って、悟浄を巻き込むことに決めた。
盤面の駒は多ければ多いほどいい。だが、多すぎて盤面に収まりきらず共倒れするのは望むところでは無い。だからこれは、裏付けに基づいた合理的な判断だ。
師の残した資料と自分自身の調査研究、皇帝になってからは八戒が引き継いだ魔法塔について。
今すぐにでも破壊してやりたかったが、そううまくはいかなかった。
元々前皇帝の牛魔王に仕えていた臣下たちは、三蔵たちの怪しい動きと、貧民から魔力を奪う行為を強く制限されたことに反発してくるのも相まって、結果を急いでしまった。
ろくに準備もしないまま、自分の力を過信して悟浄へ魔力供給を行った。
結果は、ただ悟浄に負担をかけただけだった。
あの時、悟浄を助ける方法が他にひとつもなかったのかと言われれば嘘になる。
生存確率はより低くなっていただろうが、悟浄をもう一度転移で魔法塔の下まで送り、悟空に魔力を吸収してもらえば良かったのだ。
あの状態で転移酔いになればさらに酷いことになっていたかもしれないが、悟浄を実験用の駒と考えるならばその方法も考えられたはずだ。
だが、何故かその時は思いつかなかった。とにかく、三蔵自身でどうにかしなければと思ったのだ。
鬱々とした状況の中で自分の元へ飛び込んできた。
どんな状況になっても、瞳の奥の灯火だけは消さない。
まだ死にたくないと思っているくせに、自分を犠牲にすることは厭わないような態度。
目を閉じても、瞼の裏に鮮明に焼き付いて消えない紅。
気づいた時には、情は心の奥底に根を張っていた。
守ってやりたいと思ってしまった。
三蔵の手の中で熱く乱れ、神聖な場所に紅い髪を散らし、悟浄が声を漏らす姿を思い出すたび、胸の奥を何かが蠢く。
庇護欲なのか、独占欲なのか、それとも違う何かのせいなのか。
今はまだ不確かだけれど、確かに悟浄へ向ける感情は大きくなっている。
その感情に向き合うことを、後回しにした。
やらなければならないことが多すぎると、自分に言い訳をして。
―――三蔵はこの先、それを二度悔いることになる。