夜の果てまで
心の距離
間が空いてすみません。
最後まで頑張ります。
夜詠の甲斐甲斐しい世話のおかげもあり、悟浄の体力は順調に回復し数日が経った。
その間、身体が鈍って仕方がないと言うので度々悟空を連れていき、護衛が傍にいないと困るという理由で三蔵も一緒に悟浄の元へ通っていた。
悟浄は三蔵と目を合わそうとしなかったが、悟空がいる手前、三蔵も無理に距離を詰めることはせず傍にいるのみだった。
ただ一度だけ、二人きりになるタイミングがあった。
それは、ようやく夜詠と八戒の許可が出て、悟浄の煙草が解禁された時だった。
恐らく周りに気を使われたのだと思うが、直接三蔵に煙草を貰ってくるようにと言われ、夜詠の付き添いの元渋々三蔵の執務室へと行ったのだった。
悟浄は扉の前でしばらく悩み、立ち尽くしていたのだが、意を決してノックをしようとした瞬間に扉が開いた。
「あ、やっぱり悟浄じゃん! 何やってんの?」
そう言って顔を出したのは悟空だった。ノックをしようとした手は虚しく空振りし、固めたはずの決意も霧散する。
「いや、えーっと、別に大した用じゃねぇし忙しいならまた……」
「今ちょうど落ち着いて、俺おやつ貰ってくるとこだったんだ! 夜詠もいるならちょうどいいや。悟浄入って待っててよ。三蔵いるから!」
「私は部屋の前で警備をしておりますので」
「じゃ、俺みんなの分も貰ってくる!」
「あ、ちょっ」
悟空は満面の笑みであっという間に廊下の奥へと消えてしまった。夜詠は静かに扉の横に立ち、悟浄へ早く入れと目配せをしている。
「一緒に……」
「入りません。悟浄さん、頑張ってください」
素気無く夜詠に断られてしまい、仕方なく部屋の中をそっと伺う。三蔵が眼鏡をかけて書類を睨みつけていた。あ、眼鏡も似合うな。なんて思ってじっと見てしまい、そして目が合った。
「いつまで突っ立ってんだ。入れ」
「お、おう」
最後にもう一度夜詠に助けを求めてみたが、既に前を見据えてこちらを見てはくれなかった。
諦めて中に入り、後ろ手に扉を閉める。三蔵も眼鏡を机の上に置き、書類から顔を上げた。
「もっと近くに来い」
「いや、でも」
「来い」
「はい……」
何故こんなに気まずいのか。そんなことはわかりきっている。
悟浄が三蔵から逃げ続けていたからだ。
あの日、三蔵に好きだと言われたことを悟浄は聞き逃していたわけではない。しっかり聞こえていた。だけど、自分の膀胱と脳の許容量が限界だったのも確かで……。その後はあれやこれやと理由をつけて、その話題に触れないようにしていたのだ。
三蔵は立ち上がり、悟浄の方へ向かってくる。たった数メートルの距離なのだが、もっと遠ければとこんなに思ったことは無い。
「悟浄」
「なん、だよ」
「用があるのはてめぇだろう。言ってみろ」
「いや、あの、俺は煙草を貰いに……」
「そうか。ちょっと待ってろ」
三蔵は再び自分の机へと戻ると、引き出しから悟浄の好きな銘柄の煙草を取り出す。三蔵のものとは違う、青のハイライト。
「次からも、なくなったら自分で取りに来い。定期報告も兼ねて、な」
「悟空とか夜詠に頼むってのは……」
「ダメだ。直接来ないと渡さん」
「……ケチ」
「そうでもしねぇと、逃げ続けるだろ」
そう言われ、遂に避けては通れない話題になったと心臓が大きく脈打ち始めた。
あれからずっと考えたが、考えても答えは出なかった。自分にとって三蔵はこの国の皇帝で、元は憎むべき相手で、関わることすら本来有り得なかった存在である。
確かに、皇帝と庶民としては有り得ない関係と有り得ない醜態をさらしてはいるが、それは不可抗力であって、愛だの恋だのという類のものではなかったはずだ。
だが、目の前にある熱っぽい視線を悟浄は無視することが出来ないでいた。蛇に睨まれた蛙のように、身体が動かない。
「嫌なら抵抗しろ」
「何、んっ」
ぐっと三蔵の顔が近づいたと思ったら、あっという間に腰を引き寄せ唇を重ねていた。
すぐに三蔵の舌が悟浄の唇を突き、その先へ通せと強請ってくる。
「ん、んぅ」
思わず目を閉じていたが、それを後悔した。唇を合わせる水音が余計に聞こえてきてしまう。更に、三蔵に両耳を塞ぐように顔を固定され、さらに頭の中に音が響く。
息ができなくて苦しくなり、呼吸をしようと無意識に開けた唇から三蔵の舌が無遠慮に侵入してきた。
(嫌、嫌なの、か……? でも、これを拒んだら、三蔵は、俺のこと……)
三蔵を拒むことも、完全に受け入れることもできない悟浄は、ただ流されることしかできない。
拒むことで今の居場所を失うのが怖い。
三蔵に、お前はいらないんだと捨てられるのが怖い。
「悟浄……?」
いつの間にか二人掛けのソファに押し倒され三蔵に圧し掛かられていた悟浄は、目から大粒の涙を流していた。
「三蔵のこと、好きだし、凄い奴だって思ってる。でも、そういう意味で、好きなのか、まだわかんねぇんだよ」
「……」
三蔵は少し驚いたように悟浄を見ると、悟浄からそっと離れてソファから降りてどこかへ歩いていく。
悟浄にとってそれは、三蔵が悟浄のことを見限ったように見えてまた涙が溢れてきた。
ソファに寝ころんだまま腕で顔を覆っていると、視界が一段暗くなってカサリと何かの音がする。
恐る恐る腕を除けると、三蔵が眉間に皺を寄せたまま悟浄の様子を伺っていた。手には、煙草の入った紙袋。
「……悪かった。お前の気持ちを考えないで、事を急いてしまった。落ち着いたらこれ持って戻れ」
「さんぞ……」
「悟空には八戒のところへ行けと伝えておく」
三蔵は悟浄の髪をするりと梳くと、悟浄の知らない表情で呟いた。
「この国の為じゃなく、悟浄、お前が俺にとって必要なんだよ」
「……っ」
この時、悟浄は静かに三つの衝撃を受けていた。
髪を梳かれる感覚に、攫われて無理やり魔力を流し込まれ朦朧とした闇の中で思い出したことが“ありえたかもしれない出来事”ではなく、“確かにあった出来事”だと思い出したこと。
誰にも必要とされずに生きてきた悟浄を、皇帝が―――三蔵が、必要だと言ったこと。
悟浄の知らなかった、“愛しい”という表情はきっとこういうもので、ずっとそれが欲しかったんだと気づいたこと。
それは、心の中で確かな爪痕を残していく。
ゆっくりと悟浄から離れドアの外にいる夜詠に何か伝えている三蔵の声を聴きながら、身体の内側が温かく、でも、どうしようもなく泣きたいような相反する感情を抱えて悟浄はソファの上で無理やり身体を押し込め丸くなった。
そのまま涙が止まって身体の熱が引くまで、ただ、三蔵が同じ空間にいる気配を感じていた。